■ 高村光雲 1852年3月8日ー1934年10月10日 (82歳没)
■ 高村光太郎 1883年3月13日ー1956年4月2日 (73歳没)
■ 高村智恵子 1886年5月20日ー1938年10月5日 (52歳没)
染井霊園
■ 光雲 江戸下谷町人の子として生まれる→1863年高村東雲の徒弟になる→東雲の姉の養子になる
→明治維新後”廃仏毀釈”の影響で仏師の仕事なくなる→積極的に西洋美術を学び写実主義を
取り入れることで衰退しかけた木彫を復活させる
1893年 「老猿」 シカゴ万博 出品
1897年 西郷隆盛像 上野公園
1900年 「山霊詞護」 パリ万博 出品
■ 光太郎 1902年東京美術学校卒業→1906年渡米ニューヨーク →1907年ロンドンに渡る
→1908年パリに渡る →1909年イタリア旅行後帰国
1914年 「道程」芸術院賞受賞 1951年「典型」読売文学賞受賞
1953年 十和田湖畔記念碑「乙女の像」
「彫刻は私の血の中にある」「詩を書き続けたのは自分の彫刻を護るため」
「文学的主題を引き受け、何かを物語ろうとして制作された彫刻は彫刻としての
純粋さを失い、愚劣な作品に成り下がる。彫刻を純粋たらしめるため、彫刻を
文学から独立せしめるため、詩を書かねばならない」
■ 智恵子 日本女子大学卒業後 女性洋画家の道へ
平塚らいてうの月刊誌「青鞜」 表紙担当